私は開業してこの10年で多くの事を学びました。
自分の力だけではできる事は少なく、周囲の人たちの協力や支えがあって初めて
多くの患者様を満足させることが出来ることを痛感しました。
そして、そのために医院の方向性や考え方を全てのスタッフと共有し、全ての患者様にもお伝えする事の大切さを実感しました。
その方向性や考え方を全てのスタッフに落とし込む、それを全ての患者様にお伝えできるようにするのが院長である私の責務であると考えています。
私達は、あなたの大切な歯を1本でも多く健康な状態で保ちたいと考えています。
その為に塚口オオマチ歯科・矯正歯科はこの10年で虫歯や歯周病になってから通う歯医者から、虫歯や歯周病にならない為に通う歯科医院へと変わりました。
そしてもう一つの私のとても重要な責務が当院で働く全てのスタッフが楽しく長く働ける環境を作る事です。
その為にチームワークを大事にし、チームメンバーの人材育成に全力を注いでいきます。
全てのメンバーが患者様のために全力で力を発揮できるように育成します。
干支 | 未年 |
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星座 | 山羊座 |
血液型 | 0型 |
趣味 | ゴルフ、子供と遊ぶ |
出身大学 | 朝日大学 |
所属学会・勉強会 |
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ライセンス・受講セミナー |
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1979年に兵庫県伊丹市で3人兄弟の末っ子として産まれました。
少し破天荒な兄と姉の2人の下で、厳しい父と優しい母に育てられました。
母によると11時11分生まれだそうですが、母は僕と同じで少し面白い性格なので信じていません笑
幼少期の僕を一言でいえば、常に面白い事をしていた子だったそうです。
はっきりいって全く記憶はありませんが、叔父さんや叔母さん達が集まると資雄は常に面白い事をしていたと言われます。
人を喜ばせる事が好きで、笑わせるという事が、その頃の自分にとって人を喜ばせる最大の武器だと思っていたのだと思います。
エンターテイナーな性格は生まれつきのものなのかもしれません。
自分の息子と娘を見ていてその落ち着きのない性格に妻は唖然としていますが、温かい目で見守ってあげれるのも僕がそうだったからなのかもしれません。その頃はなんとも思っていませんでしたが、今は亡き母と妻には申し訳なく思ってしまいます。
悲しい事に幼少期の記憶はほとんどありませんが、昔のアルバムや親からの話を聞く限りでは、学級委員をやったり、運動会の選手宣誓をしてみたり、目立つことが嫌いな割には意外と人前に立つ事をしていたり、人をまとめる役割が嫌いな訳ではなかったみたいです。これは父の血だと思います。
一つだけ記憶に残っているのは、小学校の行事で全生徒の前に立つ機会があり、そこでマイクのコードに引っかかって転びそうになった時にドッと笑いが起きた事です。恥ずかしいと思う反面人を笑わせれた事に少し喜びを感じていたような記憶があります。
大間知家はスポーツ一家であり、夏は海、冬はスキーに行く家庭でした。
小さい時から兄と姉はテニスで国体選手に選ばれる程の腕前でしたが、残念ながら僕だけはセンスがなかった為中学時代はバスケ部に入りました。
今思えばセンスがなかったのではなく、何事にもそこまで真剣に打ち込めてなかったのだと思います。
もっといろんな事に真剣に打ち込んでいれば、もっと楽しく有意義で、思い出深い学生時代を過ごせたはずだったのになと後悔することもありました。
僕が入ったバスケ部は体育会系の部活でしたが、上下関係の厳しくない部活でした。
自分がストイックに目標意識を持って成長してこなかった事をそういった環境のせいにしていた時期もありましたが、今思えば僕がこうやってグレずに、すれずに人に優しく出来るように育ったのは、この環境のお陰だったのかなと今では大変感謝しております。
僕が高校の時に阪神淡路大震災が起きました。
自分の家も多少被害はありましたが、ほとんど問題がなかったのが幸いでした。
ただ友達の家などは半壊状態や地域によってはライフラインが滞っている所もありましたので、積極的に我が家に泊めてあげていました。困った人に頼られることが好きだったし、すぐに世話をしたがる性分のようでした。
大学進学や将来に関して、この頃は正直あまり何も考えていなかったです。
従兄弟のお兄ちゃんが歯医者をしており、気さくで人のために身を捧げる素晴らしいその人柄に憧れ、その人が楽しそうにしている仕事を自分もしてみたいと思い、歯科医師への憧れを少しづつ持ち始めていきました。その従兄弟のお兄ちゃんは、かなり年の離れた従兄弟だったので、僕が中学生の頃にはもうすでに歯医者さんとして仕事をしていました。
そのお兄ちゃんは、すごく前向きな性格で、楽しく、いつも笑わせてくれるお兄ちゃんでした。
その頃は知らなかったですが、大学では落語研究会に所属し、たくさんの人の前でも大爆笑を取れる素晴らしいエンターテイナーだったそうです。
その従兄弟のお兄ちゃんが楽しそうに仕事しているように見えたのは、そのお兄ちゃんの性格の部分も多くありましたけど、そのお兄ちゃんが「仕事が楽しい!」と話している姿が印象的だったので、自分もあんなに楽しく仕事ができれば人生楽しいだろうなと思い、歯医者になりたいと思いました。
幸い、何をしたいと思ってもその可能性をみれるぐらいには学力をつけるために勉強させてもらっていましたので、そこまで苦労することなく歯学部には入学する事ができました。
その当時は勉強させられる事が嫌でしかなかったですけど、今となっては本当に感謝しています。
親の心子知らずとは言いますけど、本当に自分が親になって初めて色々な事に気付かされます。
岐阜の朝日大学という大学に進学しました。
岐阜では一人暮らしをしていました。周りも皆一人暮らしでしたので、生活費に困る友達もいました。
そんな友達にご飯を作ってあげたりしてました。困った人に頼られることが好きなようで、すぐに世話をしたがる性分のようでした。
大学時代の一人暮らしは本当にたくさんの事を学びました。一番遊びましたし、一番勉強しました。色々なバイトもしました。大学時代は本当に楽しい思い出がいっぱいです。
今も遊ぶ友達は、ほとんどが大学時代の友達です。やはり密度の濃い時間を共に過ごした友人達は、永遠の宝物です。
今思えば学生時代は甘やかされて育ったと思います。
特に苦労もなく、、、あったのかもしれませんが、素晴らしくプラス思考の母の遺伝子を100%受け継いだのか、特に苦労をかんじたことはありませんでした。
国家試験や卒業試験の勉強も大変でしたが、それはそれで周りの友達と楽しみながら勉強していたように思います。
もしかすると、嫌な事は寝たらすぐ忘れることの出来るタイプなので、忘れたのかもしれませんが(笑)
朝日大学を卒業後、地元に戻ってきた僕は大阪歯科大学で臨床研修医として勉強しました。
歯科医師という仕事は初めから本当に楽しかったです。
仕事は誰かを救いたい!そんな献身的な心があったから医療の道を選んだ訳ではなかったですが、結果的には人を喜ばせる事が好きな僕にとっては医療人というのは最高の職業でした。
大学時代には、なぜ自分が歯医者になる為に、大学に行き始めたのかに疑問を感じ、自分で決めた道にも関わらず、親に文句を言った事もありました。
しかし、歯科医師になってからは、こんなに楽しい仕事につけた事に心から感謝し、歯医者になる事を後押ししてくれた親に、本当に感謝しました。
歯科医になってみて、初めに思った事は、歯科大学で、国家試験の為に勉強してきた内容が、臨床では全く通用しないことでした。
多少の困惑はありましたが、どちらかというと、その頃の僕は新しい事への挑戦に、楽しさを感じていました。
やる事も多く、勉強すればする程奥が深く、知れば知る程面白い仕事でした。
またやればやる程身に付き、うまくいけばいくほど感謝される、本当にやりがいのある仕事だと感じました。
趣味=仕事になっていました。一時期は週7で仕事をしていました。
歯科は、アメリカや大学病院では内科や耳鼻科のように専門分野ごとに細かく分けられていますが、自分が大学病院で働いていたときに患者さんに言われた一言が自分のビジョンを決めたのを覚えています。
それは
「先生、おっきい病院はたらい回しにされてしんどいわ。
それぞれ専門的に診てくれるのは嬉しいけど、結局難しい説明されてもよくわからんし、何回も同じような検査されるし、それぞれの話が微妙に違ったり、同じ話をいろんな先生に何回もせなあかんかったりするからめんどくさいわ。
結局治るまでに時間もかかるし、先生みたいに親身になって話してくれる先生が全部診れるようになってよ~」
というものでした。
この患者さんのいう事はごもっともだと思いました。
そして、ほとんどの人がこう思っているだろうなと思いました。
だからより多くの人を喜ばせる事ができるのは、よりたくさんの事を勉強して、全てをトータルに診ることのできるジェネラリスト(一般歯科)だと思いました。そしてそんなジェネラリストになるべく早くなる為にもガムシャラに仕事をしていました。
飽き性の私には、最高の仕事だと思いました。その頃の彼女(今の妻)には、不思議に思われたものです。「なんでそんなに働くの?」と聞かれた事もありましたが、上記のような大義名分に突き動かされた部分はありましたが、本当は何より毎日の診療や学びが楽しかったからでした。
また、友達から「仕事が楽しくない」という話を聞いたりすると、すごくかわいそうと思う反面、自分が本当に仕事が楽しいと思えた事に感謝しました。他の仕事をそんなに深くしたことがなかったですが、自分には天職だとさえ思いました。
今思えばこんなに一つの事にハマれたのは仕事が初めてですね。
今まで何事にもそんなにハマらなかった僕がなぜこの仕事にこんなにハマったのかはわかりませんが、仕事を好きになれて本当に自分の人生は幸せだなと思います。
研修中から3件の歯科医院に勤務させていただきました。
一つの医院では、一般治療をはじめ、インプラントや審美治療も自分で行わせて頂きました。
大阪でも指折りの新患数を誇る医院でしたので、お陰様で多くの臨床経験を積ませて頂く事が出来ました。
今の、歯科医師としての僕の原点です。粟田先生はじめ、スタッフの皆様には、大変お世話になり、とても感謝しています。
お陰様で、大抵のことには動じないぐらいの根性も付きましたし、対応力も身につきました。
またもう一つの医院では、診療半分見学半分で勉強しながら働いていました。
周りの友達が高月給で働いている中ほとんど給与はもらっていませんでしたが、学べる事の嬉しさになんとも思わず働いていました。
今思えばもったいない気もしますが、あの時の経験が今に活かされていると感じています。
そしてもう一つの医院は矯正専門の医院でした。
なんでもしたい僕は、色々な事を学びたくて、学ぶ事が楽しすぎて、仕事以外の遊ぶ事をそっちのけで仕事を楽しんでしまいました。
このようにどんな治療でも対応できるように経験を積んできましたが、歯医者としての仕事が楽しすぎて、経営の勉強をせずに勤務医時代を終えてしまいました。
それが開業してからたくさんのスタッフに迷惑をかけ、医院を危険な目に合わせる事になるとはこの時は知る由もなかったです。
今ではそれが最大の汚点だったと思っています。
僕が28歳の時に母が突然他界しました。
突然の出来事でしたが、なぜかわからないですが、素直に受け止める事が出来ました。
周りの人たち、家族も含めてですが、みんな受け止め切れていない事が逆に僕を冷静にさせてくれたのかも知れません。
色々な状況や価値観が一変しました。
兄も姉も東京に住んでおり、関西にいたのは僕だけだった事もあり、僕は末っ子でしたが、父と一緒に住む事になり、実家に戻ることになりました。
後に父に聞いた話では、3人の中で一番優しい性格の僕が親の面倒を見る事は両親の中で決まっていたそうです。
今思えば、ことあるごとにそう言った話をされていた気もします。僕もなんの疑いもせずそれを受け入れていた感じはあります。
住む家が変わらない、変えれないという環境の変化と共に、
「一生住む家が変わらないのであれば、これから診る患者さんをずっと見続けたい」という思いで開業する事を決意しました。
開業する場所を探す中で、塚口という場所が候補地に挙がりました。
この候補地を見た時、「ここだ!」と運命的なものを感じました。
地元が伊丹であり、学生時代に通っていた学校への通学路の通過点であった為、小さい頃からなじみのある場所でした。
祖母が塚口の教会によく通っていたので、おばあちゃん子の僕は祖母に連れられてよく遊びに来たものです。
今はなくなってしまいましたが、サンサンタウンにあったコーヒーの青山さんにはよく行ったものでした。
阪急神戸線と伊丹線が交わる駅であり、人口も多く、ベットタウンのため、地域密着型の診療を行えるだろうという事。
そして、落ち着いた街の雰囲気が、目指した医院像に雰囲気があっていると感じました。
そして、昔のうっすらとした記憶をたどり、この塚口という地で、この地域の患者さん達と一生お付き合いしたいと感じ、ここで開業したいと思いました。
開業にあたっては色々な条件の制約はありましたが、なぜかここで開業したいという思いは日に日に強くなっていき、僕を突き動かしました。
そして全ての条件をクリアし、念願の開業をする事が出来ました。
「全ての患者様に対して愛する家族に行うように治療する」「スタッフ全員が家族のような楽しく仲の良い医院を作る事」の二つを掲げ、これからも尼崎市塚口のより多くの人々の歯の健康を保ち、そして当院に関わる全ての人に愛情もって関わっていく事をここに誓います。
以前ラジオで別の内容でインタビューを受けたときの音声はコチラ
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